文化(101項目)
江戸の刑罰(磔刑・獄門・遠島)
言及 18 作品
『石燈籠』、『勘平の死』、『弁天娘』、『槍突き』、『お照の父』 他13
“小柳は自滅して仕置を免かれたが、その死に首はやはり小塚ッ原に梟けられた。金次は同罪ともなるべきものを格別の御慈悲を以て遠島申し付けられて、この一件は落着した。「これがまあ私の売出す始めでした」と、半七老人は云った。”
引き廻し・磔刑・獄門・遠島・所払い・叱り置きなどの刑罰。『勘平の死』が磔刑の実際の手順(裸馬で引き廻し→鈴ヶ森か小塚ッ原で高い木へ縛り付け→突手が槍をしごいて見せ槍→腋の下を繰り返し突く)を半七の講釈として詳説する。放火・火事場どろぼう・贋金つかい(磔刑)・奉公人の大金窃盗(十両以上は死罪)など罪種ごとの刑も各作品で語られる。
江戸の警察機構(与力・同心・岡っ引)
言及 15 作品
『石燈籠』、『半鐘の怪』、『帯取りの池』、『朝顔屋敷』、『山祝いの夜』 他10
“「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」と、半七は先ず説明した。”
与力・同心が岡っ引の報告を聞いて町奉行所に上げる仕組み。『石燈籠』が冒頭で最も詳しく解説する(「御用聞き」は敬語・表向きは「小者」・世間では「岡っ引」。与力に同心が四、五人、同心の下に岡っ引が二、三人、岡っ引の下に手先が四、五人。給料は月に一分二朱が上の部)。自身番・辻番・番屋、番太郎、火の見梯子・半鐘の制度は『半鐘の怪』に詳しい。
検視の制度
言及 11 作品
『石燈籠』、『お化け師匠』、『三河万歳』、『筆屋の娘』、『鬼娘』 他6
“彼女は大勢が唯うろたえているうちに息を引き取ってしまった。町役人連名で訴えて出ると、すぐに検視の役人が来た。お寅の傷口は鋭い匕首のようなもので深くえぐられていることが発見された。家内の者はみな調べられた。”
変死の届け出で葬式が差し止められ、当番の与力・同心が医師立ち会いで検視する制度。『筆屋の娘』に手続き、『雷獣と蛇』に雷死は検視をしない決まり、『十五夜御用心』に睡り薬(モルヒネ)による死は鑑定できなかったこと、『幽霊の観世物』に「むかしの検視は頭部の鉄釘まで眼が届かず、女は髪の毛が多いので深く打ち込んだ釘は毛に隠されて容易に判らない」と語られる。
寺社奉行・寺社方
言及 9 作品
『津の国屋』、『狐と僧』、『化け銀杏』、『十五夜御用心』、『ズウフラ怪談』 他4
“津の国屋の親戚で、下谷に店を持っている池田屋十右衛門、浅草に店を持っている大桝屋弥平次、無宿のならず者熊吉と源助、矢場女お兼、以上の五人は神田の半七と桐畑の常吉の手であげられた。津の国屋の菩提寺の住職と無宿の托鉢僧とは寺社方の手に捕えられた。”
寺院・僧侶を支配する寺社奉行と寺社方。町方と係りが違い、寺社門前の町屋はすべて寺社方の支配に属し、町奉行所付きの者は寺社奉行の諒解を得た上でなければ自由に活動できなかった(『唐人飴』)。『狐と僧』は本山と末寺の派閥闘争と寺社奉行の吟味、『幽霊の観世物』は浅草寺内の出来事は寺社奉行の係りで寺社方には捕り手がないこと、『地蔵は踊る』は妖言妄説の取締りを描く。
吉原・遊郭の制度
言及 9 作品
『石燈籠』、『春の雪解』、『弁天娘』、『鷹のゆくえ』、『あま酒売』 他4
“「その晩すぐ近所の山女衒を呼んで来て、潮来へ年一杯四十両ということに話がきまりました。安いもんだが仕方がないというんで、あくる朝、駕籠に乗せて女衒と一緒に出してやりましたが、その女衒の帰らないうちは一文もこっちの手にはいらない。”
吉原をはじめとする遊郭の制度・風俗。『石燈籠』は女衒を通じた年季売買(年一杯四十両)と「目見得中」の身請け、『春の雪解』は吉原の風俗・制度(突き通しの禁令、出養生、二の酉、女衒、内済金、暇を出す/出される、逆さ屏風の心中)を最も詳しく描く。『鷹のゆくえ』は新宿・品川の旅籠屋名義の遊女屋、『大阪屋花鳥』は引手茶屋・貸座敷・娘義太夫、『かむろ蛇』は男娼の揚がりの通例。江戸時代の吉原はどんな大店でも屋根は板葺にする決まりだった(『大阪屋花鳥』)。
忠臣蔵
言及 8 作品
『勘平の死』、『朝顔屋敷』、『小女郎狐』、『人形使い』、『十五夜御用心』 他3
“て来たのであった。今度の狂言は忠臣蔵の三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の五幕で、和泉屋の総領息子の角太郎が早野勘平を勤め”
元禄14年(1701)の赤穂事件(吉良邸討ち入り)を題材にした人形浄瑠璃・歌舞伎。『小女郎狐』に「かの忠臣蔵の浄瑠璃が初めて世に出た年」と浄瑠璃初演年の記述がある。各作品で狂言・芝居・人物(力弥・本蔵・師直・大星等)として頻繁に引かれ、『菊人形の昔』では菊人形の題材にもなる。
浄瑠璃
言及 8 作品
『勘平の死』、『奥女中』、『小女郎狐』、『旅絵師』、『人形使い』 他3
“しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞと詰まらねえ愚痴をいうな。嘘や冗談じゃねえ、神妙に覚悟してい”
義太夫節などの語り物・人形浄瑠璃。江戸期の主要な大衆演芸。『勘平の死』(「梅川の浄瑠璃」)『旅絵師』(他人に身をやつす類句)『人形使い』(人形遣いが浄瑠璃を唄う)など、庶民の教養・道具立てとして頻出する。
祭礼
言及 8 作品
『お化け師匠』、『猫騒動』、『弁天娘』、『張子の虎』、『松茸』 他3
“なんだか気になるので、五月の末に無沙汰の詫びながら手紙を出すと、すぐその返事が来て、来月は氷川様のお祭りで強飯でも炊くから遊びに来てくれとのことであった。わたしも急に老人に逢いたくなって、そのお祭りの日に赤坂に出て行くと、途中から霧のような雨が降って来た。”
各神社の祭礼。氷川様のお祭り(『お化け師匠』。六月・本祭り。強飯・お煮染め・踊り家台・軒提灯)、芝神明の祭礼(『猫騒動』)、浅草の三社祭(『弁天娘』。三月十七日宵宮・十八日本祭)、品川の河童天王の祭礼(『張子の虎』)、深川八幡の祭礼(『松茸』。文久三年八月十五日)、長崎の諏訪神社の祭礼(『十五夜御用心』。十月で「九州一の祭り」)、大宮八幡の九月十九日の大祭(『正雪の絵馬』)、六所明神の例祭(『二人女房』。五月三日〜六日、夜の闇祭り)など。
観世物小屋(見世物)
言及 7 作品
『三河万歳』、『お照の父』、『鬼娘』、『柳原堤の女』、『かむろ蛇』 他2
“更に馴れて来ると、普通の板や畳の上でも三味線の音につれて自然に足をあげるようになる。観世物小屋で囃し立てる猫の踊りは皆こうして仕込むので、富蔵もふた月ほどかかってこの白猫を馴らした。”
江戸の見世物小屋。『お照の父』は「お化けや因果物のいろいろの奇怪な観世物が小屋をならべていた」(向う両国)と河童の見世物(木戸銭八文)、『幽霊の観世物』は幽霊見世物の仕掛け(木戸銭十六文、出口二ヵ所、景品付きの商法)を最も詳しく描く。『かむろ蛇』の明治初年には青大将にコールターを塗った「頭の黒いかむろ蛇」のいかさま観世物が出た。
植疱瘡/種痘
言及 7 作品
『奥女中』、『三河万歳』、『正雪の絵馬』、『河豚太鼓』、『地蔵は踊る』 他2
“様は明けて十七という今年の春、疱瘡神に呪われて菩提所の石の下へ送られてしまった。あまりの嘆きに取りつめて母の奥方は物狂おしく”
牛痘を接種して天然痘を防ぐ近代医療(種痘・植疱瘡)。幕末に蘭方医により広まり、天然痘(疱瘡)は江戸期に最も恐れられた疫病の一つ。『河豚太鼓』に種痘史(文政頃開始説、弘化四年の鍋島侯、嘉永三年頃の錦絵、安政六年九月の神田お玉ヶ池の種痘所開設=官許)が半七老人の語りで詳述され、「牛の疱瘡を植えると牛になる」という当時の流言も紹介される。なお「疱瘡」単独の言及は病気(天然痘)を指す作品多数。
江戸の時刻(不定時法)
言及 6 作品
『石燈籠』、『お化け師匠』、『半鐘の怪』、『雷獣と蛇』、『夜叉神堂』 他1
“「きのうの夕方、石町の暮れ六ツが丁度きこえる頃でしたろう」と、お竹はなにか怖い物でも見たように声をひそめて話した。「この格子ががらりと明いたと思うと、お菊さんが黙って、すうっとはいって来たんですよ。ほかの女中達はみんな台所でお夜食の支度をしている最中でしたから、そこにいたのはわたしだけでした。”
江戸時代の不定時法の時刻表現(四ツ=午前/午後十時、八ツ=午後二時、六ツ=六時、五ツ=八時、七ツ=四時など)。本文の括弧書き換算として『石燈籠』(四ツ=十時)、『お化け師匠』(六ツ=午前六時・四ツ=午前十時・八ツ=午後二時)、『半鐘の怪』、『雷獣と蛇』、『夜叉神堂』(九ツと八ツと七ツ、即ち十二時と午前二時、四時)、『白蝶怪』などに明記される。
刑場(小塚ッ原・鈴ヶ森)
言及 6 作品
『石燈籠』、『化け銀杏』、『張子の虎』、『金の蝋燭』、『大森の鶏』 他1
“小柳は自滅して仕置を免かれたが、その死に首はやはり小塚ッ原に梟けられた。金次は同罪ともなるべきものを格別の御慈悲を以て遠島申し付けられて、この一件は落着した。「これがまあ私の売出す始めでした」と、半七老人は云った。”
小塚ッ原(千住)と鈴ヶ森(品川)は江戸の刑場・晒し場の名所。『石燈籠』(死に首を小塚ッ原に梟ける)『化け銀杏』(長作の首が小塚ッ原に晒された)『張子の虎』(鈴ヶ森の獄門)『金の蝋燭』(千住の小塚ッ原で磔刑)『大森の鶏』(鈴ヶ森は仕置き場)『妖狐伝』(鈴ヶ森は仕置場で磔刑・獄門の名所、処刑された著名人として丸橋忠弥・八百屋お七・平井権八)に言及。
正月の風俗
言及 5 作品
『勘平の死』、『湯屋の二階』、『弁天娘』、『三河万歳』、『雪達磨』
“歴史小説の老大家T先生を赤坂のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話をいろいろ伺ったので、わたしは又かの半七老人にも逢いたくなった。T先生のお宅を出たのは午後三時頃で、赤坂の大通りでは仕事師が家々のまえに門松を立てていた。”
門松・数え日・歳の市・屠蘇・七草粥・獅子の囃子・回礼・年礼・熨斗餅など正月の風物。『勘平の死』は歳末から正月への転換期の商売替えと季節風物、『湯屋の二階』は門松・六日年越し・屠蘇・七草粥・獅子舞・武者絵の柘榴口、『雪達磨』は回礼・雪達磨作り・三ガ日・藪入り、『三河万歳』は歳暮の風物を描く。
盂蘭盆
言及 5 作品
『お化け師匠』、『津の国屋』、『蝶合戦』、『少年少女の死』、『蟹のお角』
“もう二、三日で盆休みが来るという七月九日の午すぎに、歌女代はとうとう精も根も尽きはてて、山姥を踊りながら舞台の上にがっくり倒れた。邪慳な養母にさいなまれつづけて、若い美しい師匠は十八の初秋にこの世と別れを告げた。”
盆行事。『お化け師匠』は新盆の切子燈籠、『津の国屋』は棚経・迎い火・送り火・初七日・草市・密葬、『蝶合戦』は盂蘭盆・大護摩・藪入り(盆の十六日)、『少年少女の死』は盂蘭盆の行事、『蟹のお角』は迎い火と盆の十六日の藪入りを描く。
囲い者(妾宅)
言及 5 作品
『お化け師匠』、『半鐘の怪』、『むらさき鯉』、『河豚太鼓』、『川越次郎兵衛』
“跡取りの娘であるからそちらへ差し上げるわけには行かないと、歌女寿はわざと焦らすように一旦ことわると、相手はいよいよ乗り出して来て、いわゆる囲い者として毎月相当の手当てをやる。まだそのほかに話がまとまり次第、一種の支度金のような意味で当金百両出そうという条件まで付けて来た。”
妾(囲い者)と妾宅の風習。『お化け師匠』は囲い者・当金百両の風習、『半鐘の怪』は囲い者・妾宅・柳橋の芸奴、『むらさき鯉』は囲いもの、『河豚太鼓』は囲い者(質屋の隠居の世話になる)、『川越次郎兵衛』は囲い者の隠れ家が多かった柳原・大川端を描く。
伝馬町牢屋敷
言及 4 作品
『春の雪解』、『大阪屋花鳥』、『新カチカチ山』、『廻り灯籠』
“「馬鹿をいえ。今度伝馬町へ行けば仕舞い湯だ。てめえ達のような下っ引にあげられて堪まるものか。もち竿で孔雀を差そうとすると、ちっとばかり的がちがうぞ。おれを縛りたけりゃあ立派に十手と捕り縄を持って来い」”
日本橋伝馬町の牢獄(実在)。『春の雪解』は「仕舞い湯」=死罪の言い回し、『大阪屋花鳥』は牢内の「名主・隠居」制度と鰻飯一杯一両の相場、『新カチカチ山』は牢獄の言及、『廻り灯籠』は安政元年四月の破牢が作中の事件として語られる。
売卜者
言及 4 作品
『お文の魂』、『朝顔屋敷』、『金の蝋燭』、『大阪屋花鳥』
“用人の五左衛門も心配して、あくる日は市ヶ谷で有名な売卜者をたずねた。売卜者は屋敷の西にある大きい椿の根を掘ってみろと教えた。とりあえずその椿を掘り倒してみたが、その結果はいたずらに売卜者の信用をおとすに過ぎなかった。”
占い師(売卜者・大道易者)。『お文の魂』は売卜者の占い、『朝顔屋敷』は売卜者、『金の蝋燭』は大道易者「おまえさんには死霊が祟っている」、『大阪屋花鳥』は売卜者として登場する。
交通・乗り物(電車・自転車・汽車)
言及 4 作品
『勘平の死』、『少年少女の死』、『大森の鶏』、『幽霊の観世物』
“年末大売出しの紙ビラや立看板や、紅い提灯やむらさきの旗や、濁った楽隊の音や、甲走った蓄音機のひびきや、それらの色彩と音楽とが一つに溶け合って、師走の都の巷にあわただしい気分を作っていた。”
明治期の交通機関。『勘平の死』は電車・蓄音機・電燈、『少年少女の死』は自転車の流行り出した始め(下手な素人が人を轢いたり塀を突き破ったりして、その頃の東京市中では自転車を甚だ危険なものと認めないわけには行かなかった)、『大森の鶏』は汽車、『幽霊の観世物』は「電車のまだ開通しない時代」を描く。
常磐津
言及 3 作品
『勘平の死』、『津の国屋』、『少年少女の死』
“半七は朝飯を済ませて、それから八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮にでも廻ろうかと思っていると、妹のお粂が台所の方から忙がしそうにはいって来た。お粂は母のお民と明神下に世帯を持って、常磐津の師匠をしているのであった。”
浄瑠璃の一派(常磐津節)。『勘平の死』では常磐津の師匠という女性の生業と隠し子・縁切り・手当ての慣行が語られ、『津の国屋』にも常磐津が登場。『少年少女の死』では常磐津「靭猿」(猿曳・女大名・奴・猿の四人立)と大浚い(稽古の発表会)が語られる。
葬送・火葬
言及 3 作品
『お化け師匠』、『弁天娘』、『かむろ蛇』
“手桶に水と樒とを入れて、半七は墓場へ行った。墓は先祖代々の小さい石塔で、日蓮宗の歌女代は火葬でここに埋められているのであった。隣りの古い墓とのあいだには大きい楓が枝をかざして、秋の蝉が枯れ枯れに鳴いていた。”
『お化け師匠』に駕籠での送葬・火葬(日蓮宗)、『弁天娘』に徳次郎の家の宗旨は火葬であること・深川の寺での葬式・会葬者への塩釜の配布、『かむろ蛇』に大コロリの際の千住の焼き場の混雑(棺桶が五十も六十も積まれ、骨揚げの人違いも実際にあった)が語られる。
お会式
言及 3 作品
『半鐘の怪』、『女行者』、『張子の虎』
“いたずら者もこの物々しい警戒に恐れたらしく、それから五、六日は半鐘の音を立てなかった。十月もお会式の頃から寒い雨がびしょびしょ降りつづいた。この頃は半鐘の音がしばらく絶えたのと、雨が毎日降るのとに油断して、町内の警戒もおのずとゆるむと、あたかもそれを待っていたように、不意の禍がひとりの女の頭の上に落ちかかって来た。”
日蓮宗の祖師の法要(お会式)。『半鐘の怪』は十月の法要として、『女行者』は池上のお会式(※日付は本文に明記なし)、『張子の虎』は池上の会式(本門寺)として言及される。
月見(十三夜)
言及 3 作品
『奥女中』、『小女郎狐』、『白蝶怪』
“今まで薄暗かった行燈の灯はかき立てられて、座敷は俄かに明るくなった。女たちが夜食の膳を運んで来た。時分をすぎてさぞ空腹かったであろうと女たちが丁寧に給仕して、お蝶は蒔絵の美しい膳のまえに坐らせられたが、かれは胸が一ぱいに詰まっているようで、なんにも咽喉へ通りそうもなかった。”
『奥女中』は八月十五夜の月見(薄・団子・神酒徳利)、『小女郎狐』は十三夜(後の月見)の宵の酒盛りと十五夜の芒取り、『白蝶怪』は十三夜の月見を描く。
川開き
言及 3 作品
『奥女中』、『お照の父』、『金の蝋燭』
“まあお聴きくださいまし。丁度この五月の川開きの少し前でございました。一人のお供を連れた立派なお武家がわたくしの店のまえを通りかかりまして、ふと店にいる娘を見ましてふらふらと店へはいって来たんでございます。”
両国の川開き。『奥女中』は「この五月の川開き」(正確な日付の明記はなし)、『お照の父』は「両国の川開きは毎年五月の二十八日ときまっていた」(慶応元年は花火の催しなし)、『金の蝋燭』は川開きの風物を描く。
駕籠(辻駕籠)
言及 3 作品
『奥女中』、『津の国屋』、『半七先生』
“角から四、五軒さきの質屋の土蔵のまえには、一挺の駕籠が下ろされて、そこには二人の駕籠舁と先刻の武士らしい男が立っていた。半七はそれを見とどけて、今度は表の格子からはいって来た。そうして、黙って女のまえに坐った。”
『奥女中』は質屋・辻駕籠・駕籠舁、『津の国屋』は駕籠と駕籠賃、『半七先生』は辻駕籠(駕籠屋の手前は病人のように取りつくろって運び出す)を描く。
心中の習わし
言及 3 作品
『帯取りの池』、『春の雪解』、『蟹のお角』
“変だと思って無理にこじあけると、奥の方に何か書いた紙きれが挟まっていたので、引っ張り出して読んでみると、それが娘の書置なんです。走り書きの短い手紙で、よんどころない訳があって死にますから先立つ不孝はゆるしてくださいというようなことが書いてあったので、おふくろはまたびっくりして、すぐにその書置をつかんで私のところへ飛んで来ました。”
『帯取りの池』は書置(遺書)の風習・北枕・心中の慣習、『春の雪解』は「逆さ屏風を立てる心中の習わし」、『蟹のお角』は「江戸時代のよし原では、心中した娼婦の死骸は裸にして葬ると云い伝えられている」と描く。
初午
言及 3 作品
『広重と河獺』、『吉良の脇指』、『白蝶怪』
“「そうだろう。来月はもう初午だから」と、半七は煙草をすいながら云った。「それでも毎日二三十人はありますかえ」「多い時はその位ございますが、きょうなぞは唯った十二三人でございました。”
二月の初午の日の稲荷神社の祭り。『広重と河獺』に初午、『吉良の脇指』に王子稲荷の初午、『白蝶怪』に「初午・二の午(二月の午の日、稲荷神社の祭り。神田の町内では午祭りの太鼓が鳴る)」が描かれる。
稲荷信仰
言及 3 作品
『広重と河獺』、『三河万歳』、『大森の鶏』
“老人はわたしの問うにしたがって浅草あたりの昔話を聞かせてくれた。聖天様や袖摺稲荷の話も出た。それからだんだんに花が咲いて、老人はとうとう私に釣り出された。「いや、まったく昔はいろいろ不思議なことがありましたよ。”
『広重と河獺』に袖摺稲荷、『三河万歳』に稲荷町の路地の空地に祀られた稲荷の祠(半七が「火をつける」と脅して市丸太夫を出させる)、『大森の鶏』に湯島の化物稲荷(江戸の絵図にも載る)が登場する。
髪結床
言及 3 作品
『津の国屋』、『半七先生』、『柳原堤の女』
“噂はそれからそれへと伝えられて、津の国屋には死霊の祟りがあるということが、単に湯屋髪結床の噂話ばかりでなく、堅気の商人の店先でもまじめにささやかれるようになって来た。あしたが草市という日に、お雪はいつものように文字春のところへ稽古に来た。”
『津の国屋』は湯屋・女湯・髪結床での噂の伝播、『半七先生』は女髪結(得意場を持つ髪結い職人)、『柳原堤の女』は髪結床を描く。
香具師
言及 3 作品
『三河万歳』、『鬼娘』、『幽霊の観世物』
“なにぶんにも自分ひとりでは手が廻らないので、彼はほかの子分どもにも加勢をたのんで、江戸じゅうの香具師や因果者師をそれからそれへと詮議したが、この頃に鬼っ児などを取り扱った者もなかった。鬼っ児などを取られた者もなかった。”
祭礼や見世物で商う露天商・興行師。『三河万歳』は香具師・因果者師・観世物小屋・木戸番、『鬼娘』は寺内の縁日の小屋掛け興行・香具師・祭礼出稼ぎ、『幽霊の観世物』は「観世物の付け目は香具師や因果物師」と語る。
代官所・郡代
言及 3 作品
『小女郎狐』、『張子の虎』、『大森の鶏』
“江戸の町奉行所さえその通りですから、まして諸国の代官所……それは諸国にある徳川の領地、俗に天領というところを支配しているので、その土地の出来事は皆この代官所で裁判することになっていたんです。……そこでは、とてもむずかしい捌きなどは出来ないし、又うっかりした捌き方をして、後日に譴責をうけるようなことがあっても困るので、少し手にあまるような事件には自分の意見書を添えて『何々の仕置可申付哉、御伺』といって、江戸の方までわざわざ問い合わせて来る。”
天領を支配する代官所と郡代。『小女郎狐』は代官所の裁判と御伺の制度、『張子の虎』は品川が「代官の支配」(代官伊奈半左衛門)で代官所の役人と町与力が立ち会って検視したこと、『大森の鶏』は品川〜目黒方面の村々が郡代の支配で町方と違い公然と吟味するなら郡代の屋敷へ引っ立てる必要があること(鈴ヶ森の変死は郡代から町方へ詮議が依頼される)を描く。
不忍の弁天堂
言及 3 作品
『弁天娘』、『蝶合戦』、『あま酒売』
“お此というのは、山城屋のひとり娘で、町内でも評判の容貌好しであるが、どういうわけか縁遠くて、二十六七になるまで白歯の生娘であった。それがために兎角よくない噂が生み出されて、お此は弁天娘というあだ名で呼ばれていた。”
不忍池の弁天堂(弁天様)。『弁天娘』は山城屋夫婦が三七日のあいだ日参して子を儲けた縁起、『蝶合戦』は蝶が弁天堂の燈明の火を消した怪談、『あま酒売』は「不忍の弁天の巳の日の御まもりで禍いを逃れられる」という風説を描く。
藪入り
言及 3 作品
『弁天娘』、『蝶合戦』、『雪達磨』
“ことしの正月の藪入りに出て来た時に、となりの足袋屋のおかみさんが彼を見て、徳ちゃんは芝居に出る久松のようだと云ったら、かれは黙って真っ紅な顔をしていた。そんなことも今では悲しい思い出の一つであると、お留はしみじみ云った。”
奉公人の休日。『弁天娘』は正月の藪入り、『蝶合戦』は盆の十六日の藪入り、『雪達磨』は「藪入りも過ぎた十七日」(※江戸では正月十六日とされるが、本文に日付の明記はなし)。
縁日
言及 3 作品
『三つの声』、『大森の鶏』、『幽霊の観世物』
“病気その他の故障が起ったとしても、ふたり揃って違約するのはおかしい。二十一日は大師の縁日であるから、その日を間違える筈もない。ともかくも引っ返して本人たちの家をたずねてみようと思って、まず手近の庄五郎の門をたたいたのであった。”
『三つの声』は二十一日の川崎大師の縁日、『大森の鶏』は川崎大師の初大師縁日(正月二十一日)、『幽霊の観世物』は明治期の銀座の地蔵の縁日(尾張町の横町から三十間堀の河岸へ露店)を描く。
奉公人制度(請宿・桂庵)
言及 3 作品
『お文の魂』、『向島の寮』、『大森の鶏』
“女は水でも浴びたように、頭から着物までびしょ濡れになっていた。その物腰は武家の奉公でもしたものらしく、行儀よく畳に手をついてお辞儀していた。女はなんにも云わなかった。また別に人をおびやかすような挙動も見せなかった。”
奉公人の斡旋・年季の制度。『お文の魂』は請宿(堺屋)による女中奉公人の斡旋と奉公人出入り帳、知行所の村からの奉公。『向島の寮』は下女奉公の相場「年に三両」は法外で「三両一人扶持を出せば旗本屋敷で立派な侍が召し抱えられる」と半七が評し、桂庵(奉公人あっせん)・目見得・証文(三年以上長年の約定)・仕着せなどの奉公慣行を描く。『大森の鶏』は桂庵=女郎屋・引手茶屋・料理屋への女奉公人の世話をする店。
歳の市
言及 2 作品
『勘平の死』、『歩兵の髪切り』
“女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌でつづけて飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳の市で売る飾りの海老のように真っ紅になった。「どうです。”
歳末の市。『勘平の死』に歳の市(飾りの海老)が、『歩兵の髪切り』に「深川八幡の歳の市(江戸以来の始まり、十四・十五の両日)」が描かれる。
湯屋(銭湯)
言及 2 作品
『湯屋の二階』、『大森の鶏』
“文久三年正月の門松も取れて、俗に六日年越しという日の暮れ方に、熊蔵という手先が神田三河町の半七の家へ顔を出した。熊蔵は愛宕下で湯屋を開いていたので、仲間内では湯屋熊と呼ばれていた。彼はよほど粗忽かしい男で、ときどきに飛んでもない間違いや出鱈目を報告するので、湯屋熊のほかに、法螺熊という名誉の異名を頭に戴いていた。”
『湯屋の二階』は「三馬の浮世風呂を読んだ人は知っているであろう」と江戸時代から明治の初年までの湯屋二階の風俗(若い女が茶や菓子を売る、将棋をさす閑人など)と武士の大小預かりの風習を詳説。『大森の鶏』には明治の朝湯の流行が描かれる。
四万六千日(浅草観音)
言及 2 作品
『お化け師匠』、『吉良の脇指』
“七月十日は浅草観音の四万六千日で、半七は朝のうす暗いうちに参詣に行った。五重の塔は湿っぽい暁の靄につつまれて、鳩の群れもまだ豆を拾いには降りて来なかった。朝まいりの人も少なかった。半七はゆっくり拝んで帰った。”
七月十日(または九日)の浅草観音の四万六千日。『お化け師匠』で半七が朝まいりに参詣し、『吉良の脇指』では「浅草観音の四万六千日(七月九日)」とされる。
名所図会
言及 2 作品
『お化け師匠』、『かむろ蛇』
“その晩、家へ帰って東海道名所図会を繰ってみると、三州池鯉鮒の宿のくだりに知立の神社のことが詳しく記されて「蝮蛇除の神札は別当松智院社人よりこれを出だす。遠近これを信じて授かる者多し。夏秋の頃山中叢林にこれを懐中すれば蝮蛇逃げ去るという、云々」と、書いてあった。”
『お化け師匠』は「東海道名所図会」の池鯉鮒様の項を引く。『かむろ蛇』は「江戸名所図会」に氷川明神の図が出ていると明記される。
酉の市
言及 2 作品
『半鐘の怪』、『春の雪解』
“老人はその熊手を神棚にうやうやしく飾って、それからいつもの六畳の座敷へわたしを通した。酉の市の今昔談が一と通り済んで、時節柄だけに火事のはなしが出た。自分の職業に幾らか関係があったせいであろうが、老人は江戸の火事の話をよく知っていた。”
十一月の酉の日の祭り(酉の市)。『半鐘の怪』に四谷の初酉で「かんざしほどの小さい熊手を買って神棚に飾る風習」、『春の雪解』に吉原の「二の酉」が描かれる。
長唄
言及 2 作品
『奥女中』、『帯取りの池』
“母は自分のあとを嗣がせるつもりで、子供のときから一生懸命に長唄を仕込んだが、お俊は肩揚げの下りないうちから男狂いをはじめて、母をさんざん泣かせた挙句に、深川の実家を飛び出して、上州から信州越後を旅芸者でながれ渡って、二、三年前に久し振りで江戸に帰ってくると、深川の母はもう死んでいた。”
『奥女中』に深川の長唄の師匠、『帯取りの池』に長唄の師匠(杵屋)が登場する。
無尽
言及 2 作品
『奥女中』、『松茸』
“半七がいつもより早く家へ帰って、これから夕飯をすませて、近所の無尽へちょいと顔出しをしようと思っていると、小さい丸髷に結った四十ばかりの女が苦労ありそうな顔を見せた。「親分。”
講(頼母子講)の一種。『奥女中』に「無尽」、『松茸』に「無尽講」として登場する。
江戸の通貨(両・分・朱)
言及 2 作品
『奥女中』、『三河万歳』
“一人のお供を連れた立派なお武家がわたくしの店のまえを通りかかりまして、ふと店にいる娘を見ましてふらふらと店へはいって来たんでございます。それからお茶を飲んでしばらく休んで、お茶代を一朱置いて行きました。”
1両=4分=16朱の通貨体系。『奥女中』に「一朱の茶代(※1両=16朱)」、『三河万歳』に一朱銀・三分・五両・十両・四両一分が登場する(※換算関係は本文に明記なし)。
歌留多会
言及 2 作品
『広重と河獺』、『白蝶怪』
“ゆうべは屋敷に歌留多会の催しがあって、親類の人たちや隣り屋敷の子息や娘や、大供小供をあわせて二十人ほどが寄りあつまって、四ツ(午後十時)を過ぎる頃まで賑やかに騒ぎあかした。その疲れで屋敷じゅうの者もみんな好く寝込んでしまったので高い大屋根の上に這いのぼった者があったか、転げ落ちた者があったか、誰も一向気がつかなかった。”
『広重と河獺』の風俗・習俗として、『白蝶怪』は「歌留多の会・五目鮨の馳走」として描かれる。
百物語・怪談流行
言及 2 作品
『津の国屋』、『白蝶怪』
“「そうでしょうよ」と、半七老人は笑っていた。「あれは勿論つくり話ですけれど、百物語なんていうものは、昔はほんとうにやったもんですよ。なにしろ江戸時代には馬鹿に怪談が流行りましたからね。芝居にでも草双紙にでも無暗にお化けが出たもんです」”
枠物語の世相としての百物語・怪談流行。『津の国屋』の枠話に百物語・怪談流行の世相が語られ、『白蝶怪』には「その頃の若侍のあいだに『胆だめし』と唱えて、百物語を催し、夜ふけに墓場へ踏み込み、獄門首の晒されている場所をたずねるなどの冒険めいた事がしばしば行なわれていた」と明記される。
閻魔信仰
言及 2 作品
『蝶合戦』、『正雪の絵馬』
“「はやるのは結構だが、閻魔さまもちっと睨みを利かしてくれねえじゃあ困る。盆ちゅうにも人殺しをするような奴があるんだからな」こんなことを云いながら二人は弁天堂にゆき着くと、露路の内そとには大勢の見物人がいっぱいに集まっている。”
『蝶合戦』に回向院の閻魔、『正雪の絵馬』に「新宿の太宗寺=『閻魔』として有名」と実在の寺が語られる。
寺子屋・七夕の大清書
言及 2 作品
『雷獣と蛇』、『半七先生』
“お朝の二七日は七月七日であったが、その日はあたかも七夕の夜にあたるというので、六日の逮夜に尾張屋の主人喜左衛門は親類共と寺まいりに行った。重吉も一緒に行った。かれはお朝と運命を倶にすべくして無事に助かった幸運の男であった。”
手習いの寺子屋と七夕の大清書。『半七先生』に最も詳しい。手習い子は一年に二度、正月の書初めと七月の七夕祭りが大清書で、五色のいろ紙に書いて笹竹に下げる。一種の学年試験のようなもので師匠が一々審査して成績の順序を定めた。山村小左衛門の書流は江戸時代に最も多い溝口流で「雷師匠」として恐れられた。『雷獣と蛇』は七夕の夜に逮夜の寺まいりをしたと描く。
出開帳(居開帳)
言及 2 作品
『大阪屋花鳥』、『夜叉神堂』
“天保十二年の三月二十八日から浅草観音の開帳が始まった。いわゆる居開帳であるが、名に負う浅草の観世音であるから、日々の参詣者はおびただしく群集した。奥山の驢馬の見世物などが大評判であった。”
寺の開帳。『大阪屋花鳥』は天保十二年三月二十八日からの浅草観音の居開帳(奥山の驢馬の見世物、菊川国丸の蹴鞠、淀川富五郎の貝細工などが評判)。『夜叉神堂』は文化九申年三月三日から渋谷の長谷寺に京都の清水観音の出開帳があったこと、開帳は夕七ツ限りで数十人の僧侶が日々参列したこと、文化八年の春に大阪西の宮で四十八年目の開帳があったことを語る。
四谷怪談・お岩
言及 2 作品
『柳原堤の女』、『正雪の絵馬』
“今まで一分ずつくれていたのですから、ほんとうの化け物でないことは判っていますが、なにしろ化け物のような女の正体がわかってみると、なんだか薄気味が悪くなって、お岩か累にでも執着かれたような心持で、わたくしは怖々ながら付いて行くと、女はすすり泣きをしながら、どうで一度は知れるに決まっていると覚悟はしていたが、さてこうなると悲しい、情けない。”
『柳原堤の女』に「お岩か累にでも執着かれたような心持」(勝次郎の告白)、『正雪の絵馬』にお岩さま(四谷怪談)に掛けたお絹の容貌の比喩が登場する。
川崎大師
言及 2 作品
『三つの声』、『大森の鶏』
“芝、田町の鋳掛屋庄五郎が川崎の厄除大師へ参詣すると云って家を出たのは、元治元年三月二十一日の暁方であった。もちろん日帰りの予定であったから、かれは七ツ(午前四時)頃から飛び起きて身支度をして、春の朝のまだ明け切らないうちに出て行ったのである。”
川崎厄除大師(平間寺)。『三つの声』は日帰り参詣の風俗(参詣ゆえ「もとより大金を所持している筈もなかった」)、『大森の鶏』は初大師縁日と「江戸から大師河原まで五里半・日帰り十里以上」、文化の初め頃に十一代将軍が四十二の厄年で参詣した言い伝えを語る。
瓦版・新聞
言及 2 作品
『仮面』、『柳原堤の女』
“ある冬の日、わたしが老人を赤坂の家にたずねると、老人は日あたりのいい庭にむかって新聞をよんでいた。その新聞には書画を種の大詐欺の記事がかかげてあって、京浜は勿論、関西九州方面にわたってその被害高は数万円にのぼったと書いてあった。”
『柳原堤の女』では怪異の噂が「瓦版で売り歩かれるまでに発展」したと描かれる。『仮面』の枠話は書画を種の大詐欺(京浜は勿論、関西九州方面にわたって被害高数万円)という明治以降の新聞記事として語られる。
狐使い
言及 2 作品
『菊人形の昔』、『蟹のお角』
“「狐使いだよ」と、男の児は表を指さすと、女房も表をちょっと覗いて、ふたたび小声で子供をたしなめるように叱った。男の児は半七らを恐れたのではなく、そのあとから付いて来た市子を恐れているのであろう。”
管狐を飼って他人の吉凶禍福や失せ物・尋ね人のありかを占う狐使い。『菊人形の昔』に詳説される(管狐は細い管のなかに身をひそめ滅多に姿を見せない。時にはその狐を他人に憑けることもあると恐れられたり忌がられたりした。供え物をしなければならないので、狐使いは一生貧乏すると云い伝えられた)。狐使いでも他人に格別の害をあたえない限りはそのまま見逃すのが当時の習い。『蟹のお角』は前作の一件として言及される。
新富座
言及 2 作品
『お文の魂』、『青山の仇討』
“わたしが学校から帰る頃から寒い雨がそぼそぼと降り出して、日が暮れる頃には可なり強い降りになった。Kのおばさんは近所の人に誘われて、きょうは午前から新富座見物に出かけた筈である。「わたしは留守番だから、あしたの晩は遊びにおいでよ」と前の日にKのおじさんが云った。”
明治の劇場(新富座)。『お文の魂』は明治の風俗として、『青山の仇討』は「新富は佐倉宗吾でしたね」と芝居の観劇として登場する。
電灯・ランプ
言及 2 作品
『お文の魂』、『金の蝋燭』
“Kのおじさんは役所から帰って、もう夕飯をしまって、湯から帰っていた。おじさんは私を相手にして、ランプの前で一時間ほども他愛もない話などをしていた。時々に雨戸をなでる庭の八つ手の大きい葉に、雨音がぴしゃぴしゃときこえるのも、外の暗さを想わせるような夜であった。”
『お文の魂』は明治の風俗としてランプ・柱時計(七時を打つ)、『金の蝋燭』は明治三十年前後の電灯の普及状況(普通の住宅ではむしろ新しい方)と長時間の停電(三十分も一時間も続くことがあった)を描く。
講釈・落語・太鼓持
言及 2 作品
『女行者』、『川越次郎兵衛』
“「御承知の通り、江戸時代には天一坊をそのままに仕組むことが出来ないので、大日坊とか何とかいって、まあいい加減に誤魔化していたんですが、明治になったのでもう遠慮はいらないということになって、講釈師の伯円が先ず第一に高座で読みはじめる。”
『女行者』は講釈師の伯円が明治になって高座で天一坊を読み始め大当りしたこと、『川越次郎兵衛』は太鼓持・落語家の風俗と、国定忠治の子分だった太鼓持の来歴を描く。
菊人形
言及 2 作品
『菊人形の昔』、『蟹のお角』
“九月、ことしの団子坂は忠臣蔵の菊人形が大評判で繁昌しました。その人形をこしらえたのは、たしか植梅という植木屋であったと思います”
菊花で作った人形の見世物。江戸末期〜明治期に流行した実在の催し。『菊人形の昔』に菊細工の歴史(文化九年の秋、巣鴨の染井の植木屋で菊人形を作り出したのが始まり。団子坂の植木屋で始めたのは安政三年)と「文久元年の九月、ことしの団子坂は忠臣蔵の菊人形が大評判」が語られる。『蟹のお角』にも言及。
火付盗賊改め
言及 1 作品
『湯屋の二階』
“あくる朝は七草粥を祝って、半七は出がけに八丁堀同心の宅へ顔を出すと、世間がこのごろ物騒がしいに就いて火付盗賊改めが一層厳重になった、その積りで精々御用を勤めろという注意があった。これが半七を刺戟して、いよいよ彼の注意を熊蔵の二階に向けさせた。”
江戸の治安機関(火付・盗賊の取締り)。『湯屋の二階』に黒船来航後の世相として「火付盗賊改めの強化」が言及される。
池鯉鮒様(知立神社)
言及 1 作品
『お化け師匠』
“「まあ、どうでもいいから俺の云うことをきいてくれ。お前はこれから手をまわして、この近所で池鯉鮒様の御符売りの泊っているところを探してくれ。馬喰町じゃああるめえ。万年町辺だろうと思うが、まあ急いで見つけて来てくれ。”
東海道三州(三河)の知立の神社。蝮蛇除けの神札で有名。「東海道名所図会」に「蝮蛇除の神札は別当松智院社人よりこれを出だす。遠近これを信じて授かる者多し」と記される。『お化け師匠』では贋の蛇除け御符売りの手口(蛇を馴らし御符に針をさして蛇の頭を突く)も半七老人の解説として語られる。
猿芝居
言及 1 作品
『半鐘の怪』
“「それが可笑しいんです。その猿公はね、両国の猿芝居の役者なんです。それがどうしてか逃げ出して、どこの屋根を伝ったか縁の下をくぐったか、この町内へまぐれ込んで来て、とうとうこんな騒ぎを仕出来したんですが、だんだん調べてみると、こいつは女形で八百屋お七を出し物にしていたんです。”
両国の猿芝居。女形が「八百屋お七」を出し物にしていた。『半鐘の怪』では芝居の所作「打てば打たるる櫓の太鼓」を覚えた猿が火の見梯子で半鐘を打ったという落ちで、事件の真相となる。
鞴祭り
言及 1 作品
『半鐘の怪』
“表からそっと覗いてみると、親方らしい四十ぐらいの男が指図して、三人の職人が熱い鉄挺から火花を散らしていた。その傍でぼんやりと鞴を吹かせている小僧は、この間ひどい目に遭った権太郎だと家主が教えてくれた。”
十一月八日の鞴祭り。鍛冶屋が蜜柑を往来へ撒く風習として『半鐘の怪』に語られる。
参勤交代
言及 1 作品
『奥女中』
“一種の人質となって多年江戸に住んでいることを余儀なくされた諸大名の奥方や子息たちは、われ先にと逃げるように国許へ引きあげた。勿論この屋敷でも奥方を領地へ送ることになったが、乱心同様の奥方が道中に狂い出したらばどうするか、国許へ帰っても今のありさまであったらばどうするか。”
『奥女中』に「一種の人質となって多年江戸に住んでいることを余儀なくされた諸大名の奥方や子息たち」という参勤交代の実情の解説が本文明記される。文久の改革による妻子帰国許可が物語の筋の要となる。
雑司ヶ谷鬼子母神
言及 1 作品
『帯取りの池』
“「だが、まあいいや、久し振りでこっちへ登って来たから、鬼子母神様へ御参詣をして、茗荷屋で昼飯でも食おうじゃねえか」二人は田圃路を行きぬけて、鬼子母神前の長い往来へ出ると、ここらの気分を象徴するような大きい欅の木肌が、あかるい春の日に光っていた。”
実在の神社。『帯取りの池』に「天保以来参詣の足がゆるんだが、秋の会式・春の桜時は賑わう」とされ、名物の風車、巻藁に刺した笹の枝の麦藁の花魁、すすきの木菟、住吉踊りの麦藁人形、桐屋の飴、団子茶屋などが描かれる。
素読吟味
言及 1 作品
『朝顔屋敷』
“きょうから八日前のことであった。例年の通りに、お茶の水の聖堂で素読吟味が行なわれた。素読吟味というのは、旗本御家人の子弟に対する学問の試験で、身分の高下を問わず、武家の子弟が十二三歳になると、一度は必ず聖堂に出て四書五経の素読吟味を受けるのが其の当時の習慣で、この吟味をとどこおりなく通過した者でなければ一人前とは云われない。”
旗本御家人の子弟に対する学問の試験。身分の高下を問わず、武家の子弟は十二三歳になると一度は必ずお茶の水の聖堂で四書五経の素読吟味を受け、これを通過しなければ一人前と言われない。『朝顔屋敷』に手続き(前月までに組々の支配頭へ願書提出、当日五ツ半=午前九時までに出頭、吟味は四ツ時=午前十時に開始、林図書頭をはじめ諸儒者列席、成績優等には反物や白銀の賞与)が詳述される。「烏賊」と「章魚」のやりとり(※本文中で対応が前後で逆転している不整合あり)も語られる。
皿屋敷
言及 1 作品
『朝顔屋敷』
“それは杉野の屋敷であるかどうかは知らなかったが、四番町辺に朝顔屋敷という怪談の伝えられていることは、彼もかねて聞いていた。皿屋敷、朝顔屋敷、とかくに番町に化け物屋敷のようなものの多いのは、この時代の名物であった。”
番町皿屋敷の怪談。『朝顔屋敷』に「皿屋敷、朝顔屋敷、とかくに番町に化け物屋敷のようなものの多いのは、この時代の名物」と引かれる。
生姜市(芝神明宮)
言及 1 作品
『猫騒動』
“文久二年の秋ももう暮れかかって、芝神明宮の生姜市もきのうで終ったという九月二十二日の夕方の出来事である。神明の宮地から遠くない裏店に住んでいるおまきという婆さんが頓死した。おまきは寛政申年生まれの今年六十六で、七之助という孝行な息子をもっていた。”
文久二年九月の芝神明宮の生姜市。『猫騒動』に「きのうで終った」と九月二十一日で終了したことが明記され、神明の祭礼の時期を特定する手掛かりとなる。
東海道五十三次(箱根の関所)
言及 1 作品
『山祝いの夜』
“それを思うと、むかしと今とはすっかり変ったもんですよ。その頃は箱根へ湯治に行くなんていうのは一生に一度ぐらいの仕事で、そりゃあ大変でした。いくら金のある人でも、道中がなかなか億劫ですからね。まあ、普通は初めの朝に品川をたって、その晩は程ヶ谷か戸塚にとまって、次の日が小田原泊りというのですが、女や年寄りの足弱連れだと小田原まで三日がかり。”
『山祝いの夜』に東海道五十三次。小田原と三島の駅が箱根の関を控えて屈指の繁昌で、東から来た旅人は小田原、西から来た旅人は三島に泊って翌日箱根八里の山越しをするのが当時の習い。箱根の関所と手形制度(主人のほか家来何人としるされ、臨時に荷かつぎを雇ったと言えば大抵無事に通れた。素姓の知れない者を供と偽って通すのは「一種の関破り」)も説明される。
山祝いの風習
言及 1 作品
『山祝いの夜』
“「失礼でございますが、今夜はわたくしが山祝いをいたしましょう」と、喜三郎は云った。旅人が無事に箱根を越せば、その夜の宿で山祝いをするのが当時の習いであるので、本来ならば主人の市之助から供の二人に三百文ずつの祝儀をやって、ほかに酒でも振舞うべきであった。”
旅人が無事に箱根を越せばその夜の宿で山祝いをするのが当時の習い。本来は主人が供の二人に一人三百文ずつの祝儀(計六百文)と酒を振る舞う。『山祝いの夜』では市之助が祝儀を出したが七蔵がみな懐に入れた。
湯治
言及 1 作品
『山祝いの夜』
“それを思うと、むかしと今とはすっかり変ったもんですよ。その頃は箱根へ湯治に行くなんていうのは一生に一度ぐらいの仕事で、そりゃあ大変でした。いくら金のある人でも、道中がなかなか億劫ですからね。まあ、普通は初めの朝に品川をたって、その晩は程ヶ谷か戸塚にとまって、次の日が小田原泊りというのですが、女や年寄りの足弱連れだと小田原まで三日がかり。”
その頃は箱根へ湯治に行くのは一生に一度ぐらいの仕事で、女や年寄りの足弱連れだと小田原まで三日がかりだった、と『山祝いの夜』に語られる。天保版の道中懐宝図鑑(小形の道中案内書)では当時の湯本・宮の下は茅葺屋根に描かれていた。
御鷹匠・お鷹
言及 1 作品
『鷹のゆくえ』
“時節柄で亀戸の藤の噂が出た。藤の花から藤娘の話をよび出して、それから大津絵の話に転じて、更に鷹匠のはなしに移る。その話を順々に運んでいては長くなるから、前置きはいっさい略して、単に本文だけを紹介することにした。”
将軍家の飼い鳥「お鷹」と御鷹匠の制度。『鷹のゆくえ』に、お鷹を逃がした鷹匠は切腹ものの椿事で連れの同役も御役御免か謹慎、御鷹匠は高百俵・見習い五十俵で身分は高くないが「御鷹匠」と呼ばれ、小紋の手甲脚絆草鞋穿きで菅笠をかぶり片手に鷹を据えて市中を往来したと詳述。庶人が鷹を飼うことは鎌倉時代以来の禁令で、ひそかに飼う者は死罪、訴人した者には銀五十枚が賜わった。徳川家の御鷹所は千駄木と雑司ヶ谷の二カ所。
日蓮宗・題目(御祖師様)
言及 1 作品
『津の国屋』
“秋の宵であった。どこかで題目太鼓の音がきこえる。この場合、月並の鳴物だとは思いながらも、じっと耳をすまして聴いていると、やはり一種のさびしさを誘い出された。「七偏人が百物語をしたのは、こんな晩でしょうね」と、わたしは云い出した。”
『津の国屋』に御祖師様(日蓮上人)・お題目・題目太鼓が登場する(※宗派名の明記は本文にない)。
三河万歳(才蔵市)
言及 1 作品
『三河万歳』
“つまり上戸は下町で酔いつぶれてしまうが、下戸は酔わないから正直に四谷赤坂麹町まで回礼をしてあるくわけで、春早々から麹町や赤坂などの年始廻りをしているのは野暮な奴だというようなことになっていたんです。しかし万歳だけは山の手の方にいいのが来ました。”
万歳の風習。屋敷万歳(出入り万歳。出入り屋敷がきまっていて、ほかの屋敷や町家へは決して立ち入らない)と町万歳(町家を軒別にまわる)。才蔵(万歳の連れ)と才蔵市(日本橋の四日市に開かれ、天保以後に廃れた)の制度が『三河万歳』に詳述される。才蔵を連れない万歳は武家屋敷の門松をくぐる訳にはいかなかった。
十夜講
言及 1 作品
『槍突き』
“日がくれてから七兵衛は葺屋町の家を出て、浅草の念仏堂の十夜講に行った。その途中で、念のために、柳原の堤を一と廻りして見ると、槍突きの噂におびえているせいか、長い堤には宵から往来の足音も絶えて、提灯の火一つもみえなかった。”
お十夜。十月六日夜から始まる法要・説法。『槍突き』に「十月の中十日」(=旧暦10月6日〜15日ごろ)と明記される。
六十六部(六部)
言及 1 作品
『お照の父』
“あたしが見た訳じゃありませんけれども、お滝の話には何でも先月の初め頃に、もう日の暮れかかる時分に一人の六部が家の前に立って、なにか鐸を鳴らしていると、そこへ丁度お父っさんが外から帰って来て、その六部と顔見あわせて何だか大変にびっくりしたような風だったそうで、それから二人が小さい声でしばらく立ち話をして、お父っさんはその六部に幾らかやったらしいということです。”
六十六部の廻国修行。『お照の父』に長平が「仏の像を入れた重い笈を背負って、錫杖をついて」中仙道を信州善光寺へ巡礼したと描かれる。
奉行所の裁判(目安書・御仕置例書)
言及 1 作品
『小女郎狐』
“勿論、多少は係りの奉行の手心もありますけれども、奉行所には一定の目安書というものがあって、すべてそれに拠って裁判を下したもので、奉行の一料簡で殺すべきものを生かすなんて自分勝手のことは、なかなか出来ないような仕組みになっていたんです。”
『小女郎狐』の冒頭で半七老人が江戸時代の奉行所の裁判制度を解説する。一定の裁判の基準「目安書」があり、奉行の一料簡で殺すべきものを生かすような自分勝手はできない仕組みだった。諸国の天領は代官所が支配し、手にあまる事件には「何々の仕置可申付哉、御伺」と江戸へ問い合わせ、奉行所から「御指図書」の返事があって初めて落着した。伺いのあった事件は「御仕置例書」という帳面に書き留められた。
隠密(御庭番)
言及 1 作品
『旅絵師』
“「徳川幕府で諸大名の領分へ隠密を入れるというのは、むかしから誰も知っていることですが、その隠密は誰がうけたまわって、どういう役目を勤めるかということがよく判っていないようです。この隠密の役目を勤めるのは、江戸城内にある吹上の御庭番で、一代に一度このお役を勤めればいいことになっていました。”
江戸城内吹上の御庭番が勤める隠密の役。『旅絵師』に詳細が語られる。一代に一度の役で将軍自身から直接仰せ付けられ、御手許金を賜り路用とする。城からまっすぐに出発するのが習いで自分の家へ帰ることは許されない。期限は一年、三年を過ぎて帰らなければ死んだものと認めて子か弟に家督相続が仰せ付けられる。召し捕られた場合はどんな拷問でも白状しないのが習いで、白状すれば当人は死罪・家は断絶。かならず着物の襟のなかにうす刃の切れ物を縫い込んでいた。大名の代換りには必ず隠密を出す慣例も語られる。
金毘羅まいり・四国遍路
言及 1 作品
『旅絵師』
“年来の宿願であった金毘羅まいりを思い立って、娘のおげんと下男の儀平をつれて、奥州から四国の琴平まで遠い旅を続けて、その帰りには江戸見物もして、今や帰国の途中であると話した。この時代に足弱と供の者とを連れて奥州から四国路までも旅行をするというのは、よっぽど裕福の身分でなければならないことは判り切っていた。”
『旅絵師』の風習として金毘羅まいり・四国遍路が登場する。
松茸献上(御松茸御用)
言及 1 作品
『松茸』
“十月のなかばであった。京都から到来の松茸の籠をみやげに持って半七老人をたずねると、愛想のいい老人はひどく喜んでくれた。「いや、いいところへお出でなすった、実は葉書でも上げようかと考えていたところでした。”
上州太田の金山の松茸献上。旧暦八月八日から公儀のお止山となり、宿々の問屋場の人足がリレーで一昼夜かけて江戸へ運ぶ。「御松茸御用」の木の札が付けられ、琉球の畳表・紺の染麻・封印も用いられた。『松茸』の事件の発端となる。
人形芝居(あやつり)
言及 1 作品
『人形使い』
“「年代はたしかに覚えていませんが、あやつり芝居が猿若町から神田の筋違外の加賀ツ原へ引き移る少し前だと思っていますから、なんでも安政の末年でしたろう」と、半七老人は云った。「座元は結城だか薩摩だか忘れてしまいましたが、湯島天神の境内で、あやつり人形芝居を興行したことがありました。”
あやつり芝居。猿若町から神田の筋違外の加賀ツ原へ引き移る「少し前」が安政の末年と『人形使い』の半七老人が回想する(作中年特定の手掛かり)。湯島天神境内での人形芝居興行や信州中仙道(諏訪・松本城下)の旅興行、上演狂言(「優曇華浮木亀山」「本朝廿四孝」「忠臣蔵」の通し)も語られる。
鉄漿(おはぐろ)
言及 1 作品
『少年少女の死』
“田原屋には四人の女中がありまして、その女中頭を勤めているのはおはまという女で、三十一二で、丸髷に結って鉄漿をつけていました。これはここのうちの親類で、手伝いながら去年から来ていたんです。これを厳しく調べると、とうとう白状しました」”
既婚女性の歯を黒く染める鉄漿の風習。『少年少女の死』では当日つけたばかりで乾いていない鉄漿が手拭に痕を残すことが手掛かりになる。
虚無僧(普化宗)
言及 1 作品
『十五夜御用心』
“私はかつて「虚無僧」という二幕の戯曲をかいて、歌舞伎座で上演されたことがある。その虚無僧の宗規や生活については、わたし自身も多少は調べたが、大体はそのむかし半七老人から話して聞かされたことが土台になっているのであった。”
普化宗の虚無僧。『十五夜御用心』に、虚無僧は本寺の取名印(竹名を許された証印の書き物)を所持している筈と説明される。死骸の虚無僧二人は尺八・天蓋・袈裟などの宗具のほか何も所持しておらず、本物か偽物か判然としなかった。坊主や虚無僧は寺社奉行の支配で、町方では迂闊に手を着けることが出来ない。
ズウフラ(呼筒)
言及 1 作品
『ズウフラ怪談』
“まず劈頭にズウフラの説明をしなければならない。江戸時代に遠方の人を呼ぶ機械があって、俗にズウフラという。それに就いて、わたしが曖昧の説明を試みるよりも、大槻博士の『言海』の註釈をそのまま引用した方が、簡にして要を得ていると思う。”
遠くの人を呼ぶための銅製ラッパ形の道具(オランダ渡り)。『言海』の註釈を引用し「ルウフル(蘭語Rofleの訛)…銅製、形ラッパの如く、長さ三尺余、口に当てて呼ぶ。訛して、ズウフル。呼筒」と『ズウフラ怪談』に説明される。オランダ人の江戸参府(五年に一度、日本橋石町の長崎屋源右衛門方に宿を取る)の土産物として通辞役の人に贈られたもの。
娘義太夫
言及 1 作品
『大阪屋花鳥』
“その倹約の趣意がますます徹底的になって、贅沢物の禁止、色茶屋の取り払い、劇場の移転など、それからそれへと励行されたが、その一つとして江戸の娘義太夫三十六人は風俗を紊すものと認められ、十一月二十七日の夜に自宅または寄席の楽屋から召し捕られて、いずれも伝馬町の牢屋へ送られた。”
女性の義太夫語り。『大阪屋花鳥』に、天保度の改革で「江戸の娘義太夫三十六人の召し捕りは十一月二十七日の夜、風俗を紊すものと認められて伝馬町の女牢へ送られ、天保十三年三月に百日あまりの入牢の後に釈放」されたと語られる。
唐人飴
言及 1 作品
『唐人飴』
“ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」”
唐人のような風俗をして売りに来る飴売り。ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売り、更紗の唐人服・鳥毛の付いた唐人笠・沓・鉦やチャルメラで「カンカンノウ」という節廻しの唄と変な手付きの踊りを演じた。むかしは「飴の鳥」とも云った、と『唐人飴』に説明される。
歌舞伎の三座・宮芝居
言及 1 作品
『唐人飴』
“「あの飴屋は芝居茶屋の若い衆でね」と、老人は話した。「飴細工が器用に出来るので、芝居の休みのあいだは飴屋になって稼いでいるんです」成程その飴売りは三十前後の小粋な男で、役者の紋を染めた手拭を肩にかけていた。”
『唐人飴』に、劇場は由緒ある三座に限られ、神社仏閣の境内には宮芝居(宮地芝居)の小屋掛け興行が許されていた(丸太に筵張りの観世物小屋同様、木戸銭十六文)と説明される。男と女と入りまじりの芝居は御法度。芝居茶屋の若い衆が休場中に焼鳥屋・おでん屋・飴屋などに化ける内職の習慣も語られる(劇場は一年に五、六回か四、五回の開場)。
仁王尊信仰
言及 1 作品
『唐人飴』
“半七は時々うしろを見かえりながら善光寺門前へさしかかると、源次は怱々に仕事を片付けたと見えて、やがて後から追って来た。半七は彼を頤で招いて、善光寺の仁王門をくぐろうとしたが、また俄かに立ちどまった。青山善光寺の仁王尊は昔から有名で、その前には大きい草鞋や下駄がたくさんに供えてある。”
青山善光寺の仁王尊の前に草鞋や下駄がたくさん供えてあり、奉納の大きい石の香炉がある。『唐人飴』で照之助が「十人力を授かるように」祈る信仰として描かれる。
八つ手の葉のまじない
言及 1 作品
『かむろ蛇』
“その頃、誰が云い出したのか知らないが、コロリの疫病神を攘うには、軒に八つ手の葉を吊して置くがいいと云い伝えられた。八つ手の葉は天狗の羽団扇に似ているからであると云う。関口屋でも本当にそれを信じていたわけでも無かったが、ともかくもこの時節だから、いいと云うことは真似るがいいと思って、自分の庭に大きい八つ手の木があるのを幸いに、その葉を折って店の軒さきに吊しておいた。”
コロリの疫病神を攘うには軒に八つ手の葉を吊して置くがいいと云い伝えられた。八つ手の葉は天狗の羽団扇に似ているからであると云う、と『かむろ蛇』に語られる。※本作では八つ手の葉の「お袖死ぬ」の文字はお由の小細工(焼き薬か腐れ薬で虫蝕いのように書いた)と判明する。
陰間茶屋
言及 1 作品
『かむろ蛇』
“生まれは上方で、大吉の親父です。こいつも昔は道楽者で、せがれの大吉が小綺麗に生まれたのを幸いに、子どもの時から陰間茶屋へ売りました。江戸の陰間茶屋は天保度の改革で一旦廃止になったのですが、その後も給仕男という名義で営業していました。”
江戸の陰間茶屋は天保度の改革で一旦廃止になったが、その後も給仕男という名義で営業していた(史実的事項として『かむろ蛇』に語られる)。男娼の揚がりは馴染の客に元手を出して貰って小商いを始めるか寺侍の株を買うか、小間物や煙草の行商になるのが通例だった。
神仏混淆の禁止
言及 1 作品
『かむろ蛇』
“むかしは日輪寺も氷川神社も一緒でありましたが、明治の初年に神仏混淆を禁じられたので、氷川神社は服部坂の小日向神社に合祀されることになって、社殿のあとは暫く空地のままに残っていましたが、今では立ち木を伐り払って東京府の用地になっているようです。”
明治の初年に神仏混淆が禁じられ、氷川神社は服部坂の小日向神社に合祀された(史実)。『かむろ蛇』の後日談として語られる。
河豚太鼓(カンカラ太鼓)
言及 1 作品
『河豚太鼓』
“「きのうの八ツ半(午後三時)頃に、玉ちゃんが池の端を歩いているのを見た人があるそうで……。一人じゃあない、カンカラ太鼓を売る人と一緒に歩いていたのが、どうも菊園の玉ちゃんらしかったと云うのです。八ツ半頃というと、天神さまの御境内でみんなが玉ちゃんを探していた頃ですから、それがやっぱり玉ちゃんだろうと思うのですが……」”
素焼の茶碗のような泥鉢の一方に河豚の皮を張った太鼓。竹を割った細い撥で叩くとカンカラというような音がするので俗にカンカラ太鼓とも云う。十年ほど前から江戸にはやった子供の手遊びで、普通の太鼓よりも遙かに値が廉い。『河豚太鼓』の題名であり、玉太郎を釣り出す餌・お京を尾行するきっかけという二重の手掛かりになる。
火伏せの呪禁(橙に龍の字)
言及 1 作品
『河豚太鼓』
“根太板を剥がれた床下は、芥溜めのように取り散らしてあった。そのなかに一つの大きい橙の実が転げているのを拾わせて、半七は手に取って眺めた。橙には龍という字があらわれていた。近い頃に書いたと見えて、墨の色もまだはっきりと読まれた。”
橙に「龍」という字をかいて、大晦日の晩に縁の下へ投げ込んで置くと、その翌年は自火は勿論、類焼の難にも逢わないと伝えられている(龍が水を吐くとか雨を呼ぶとかいう意味であろうと本文は述べる)。『河豚太鼓』では白雲堂の筆の橙が手掛かりになった。
大山参り
言及 1 作品
『幽霊の観世物』
“それから七、八年の後に、両国辺の人たちが大山参りに出かけると、その途中の達磨茶屋のような店で、お米によく似た女を見かけたと云うのですが、江戸末期のごたごたの際ですから、そんなところまでは詮議の手がとどかず、とうとう其の儘になってしまいました」”
江戸末期の風習。相模の大山(雨降山)への参詣。『幽霊の観世物』に「大山参りと達磨茶屋」として、お米に似た女の目撃談の舞台として登場する。
市子(口寄せ)
言及 1 作品
『菊人形の昔』
“女は五十以上であるらしく、片手に小さい風呂敷包みと梓の弓を持ち、片手に市女笠を持っているのを見て、それが市子であることを半七らはすぐに覚った。市子は梓の弓を鳴らして、生霊や死霊の口寄せをするもので、江戸時代の下流の人々には頗る信仰されていたのである。”
梓の弓を鳴らして生霊や死霊の口寄せをする者。江戸時代の下流の人々には頗る信仰されていた。『菊人形の昔』で狐使いのおころが片手に梓の弓と風呂敷包み、片手に市女笠を持っていたと描かれる。
写真術の伝来
言及 1 作品
『蟹のお角』
“わが国における写真の歴史を今ここに詳しく説いている暇はないが、安政元年の春頃から我が国にも写真術の伝わっていた事をことわって置きたい。アメリカの船員が我が役人らを撮影し、あわせてその技術を教えたのが嚆矢であると云う。”
安政元年の春頃から我が国にも伝わっていた(アメリカの船員が我が役人らを撮影し、あわせてその技術を教えたのが嚆矢)。以来、写真術は横浜に広まり、江戸から修業にゆく者もあった。文久二年はそれから八年の後で、当時の写真師は特別の依頼に応じて撮影するか、風景の写真を販売するかに留まり、一般の来客を相手に開業する者はなかった、と『蟹のお角』が史実として解説する。※西暦換算は本文に明記なし。
東山桜荘子
言及 1 作品
『青山の仇討』
“「あの佐倉宗吾の芝居は三代目瀬川如皐の作で、嘉永四年、猿若町の中村座の八月興行で、外題は『東山桜荘子』といいました。その時代のことですから、本当の佐倉の事件として上演するわけには行きません。世界をかえて足利時代の芝居にしてあるのですが、渡し守甚兵衛と幻長吉が彦三郎、宗吾が小団次、宗吾の女房おみねが菊次郎、いずれも嵌り役で大評判、八月から九月、十月と三月も続いて打ち通しました。”
佐倉宗吾(佐倉惣五郎)の一件を題材にした歌舞伎。『青山の仇討』に「佐倉宗吾の一件を題材にした『東山桜荘子』の興行と、それに伴う佐倉領の百姓の江戸見物ブーム」が語られる。
煤掃き
言及 1 作品
『吉良の脇指』
“大掃除などの無い時代であるから、歳の暮れの煤掃きは何処でも思い思いであったが、半七老人は極月十三日と決めていると云った。「わたくしなぞは昔者ですから、新暦になっても煤掃きは十三日、それが江戸以来の習わしでしてね」”
江戸城の煤掃きは十二月十三日で、それに習って江戸の者はその日に煤掃きをする。「夏は井戸換え、冬は煤掃き」。煤掃き用の笹竹売り(大高源吾の笹売り)や荒神さまの絵馬売りがあったが、明治以来絶えた、と『吉良の脇指』に語られる。
泉岳寺
言及 1 作品
『吉良の脇指』
“「どなたも御承知の通り、義士の持ち物は泉岳寺の宝物になって残っています。そのほかにも大石をはじめ、他の人々の手紙や短冊のたぐい、世間にいろいろ伝わっているようですが、どれもみんな仇討をした方の物ばかりで、討たれた方の形見は見当たらないようです。”
高輪の泉岳寺(赤穂義士の墓所)。『吉良の脇指』に「義士の持ち物は泉岳寺の宝物として残る」と語られ、かたき討ちの場所が泉岳寺の近所だった因縁にも触れられる。
節分
言及 1 作品
『化け銀杏』
“金は当然返さなければなりませんから、稲川の屋敷から二百五十両を河内屋へ返し、贋物の鬼を取り戻したんですが、稲川の主人もちょっと変った人で、畢竟こんなものを残して置くから心得ちがいや間違いが起るのだと云って、節分の晩にその贋物の鬼を焼き捨ててしまったそうです。”
『化け銀杏』で稲川の主人が「こんなものを残して置くから心得ちがいや間違いが起るのだ」と、節分の晩に贋物の鬼を焼き捨てた(半七老人は「節分の晩が面白いじゃありませんか」と評す)。
大相撲(勧進相撲)
言及 1 作品
『薄雲の碁盤』
“まったくの万力で……。近いうちに幕へはいるでしょう」と、徳次は自分の贔屓相撲のように褒め立てた。「伊勢屋の旦那は万力にたいへん力を入れて、本場所は勿論ですが、深川で花相撲のある時なんぞも、毎日見物に出かけて大騒ぎ。”
この当時の大相撲(勧進相撲)は春場所と冬場所の二回で、冬場所は十月の末頃から十一月にかけて晴天十日の興行と決まっていた、と『薄雲の碁盤』に語られる。
人力車
言及 1 作品
『お文の魂』
“「おばさんは帰りに困るでしょう」「なに、人力車を迎いにやったからいい」こう云っておじさんは又黙って茶を喫んでいたが、やがて少しまじめになった。”
『お文の魂』の枠物語(明治期)の風俗として人力車が登場する。
貸本屋
言及 1 作品
『お文の魂』
“二人は音羽の田島屋へ行った。おじさんの屋敷へも出入りするので、貸本屋の番頭はおじさんを能く知っていた。半七は番頭に逢って、正月以来かの小幡の屋敷へどんな本を貸し入れたかと訊いた。これは帳面に一々しるしてないので、番頭も早速の返事に困ったらしかったが、それでも記憶のなかから繰り出して二、三種の読本や草双紙の名をならべた。”
『お文の魂』に貸本屋(田島屋)による草双紙・読本の貸出が語られる。冒頭には草双紙『新編うす墨草紙』の腰元お文の幽霊絵がお春を驚かせた一件も登場する。
桜姫東文章
言及 1 作品
『女行者』
“その劇場は木挽町の河原崎座で『桜姫東文章』というのでした。いや、余計な前置きが長くなりましたが、これからお話し申そうとするのは、そ”
鶴屋南北作の歌舞伎『桜姫東文章』(木挽町の河原崎座。吉田家の息女桜姫が千住の女郎になる筋)。『女行者』で「その劇場は木挽町の河原崎座で『桜姫東文章』というのでした」と、当時の芝居の評判・芸談として言及される。
潮干狩
言及 1 作品
『海坊主』
“よく訊いてみると、きのうは旧暦の三月三日で大潮にあたるというので、老人は近所の人たちに誘われて、ひさしぶりで品川へ潮干狩に出かけると、花どきの癖で午頃から俄か雨がふり出して来た。船へ逃げ込んで晴れ間を待ちあわせていたが、容易に晴れるどころか、ますます強降りになって来るらしいので、とうとう諦めて帰ってくると、意地のわるい雨は夕方から晴れて、きょうはこんな好天気になった。”
三月三日の節句の潮干狩は江戸の年中行事の一つに数えられ、本事件の年(安政二年)は節句に小雨が降ったためあくる日の三月四日に延ばされた、と『海坊主』に明記される。お台場の獲物が近年ひどく少なくなったという老人の回想も語られる。
出来事(29項目)
黒船来航(ペリー)
言及 8 作品
『湯屋の二階』、『蝶合戦』、『ズウフラ怪談』、『正雪の絵馬』、『妖狐伝』 他3
“「むむ」と、半七はまた考えた。黒船の帆影が伊豆の海を驚かしてから、世の中は漸次にさわがしくなった。夷狄を征伐する軍用金を出せ”
嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる米国艦隊が浦賀に来航し開国を迫った実在の事件。本文では専ら「黒船」表記。『湯屋の二階』(「黒船の帆影が伊豆の海を驚かしてから」)『蝶合戦』(「黒船騒ぎ」)『正雪の絵馬』(「嘉永六年の黒船渡来」)『吉良の脇指』(品川沖のお台場築造)など、多くの作品の時代背景をなす。
麻疹(はしか)
言及 6 作品
『春の雪解』、『猫騒動』、『鬼娘』、『異人の首』、『金の蝋燭』 他1
“がありません。実は小せえ餓鬼が麻疹をやったもんですから」「そりゃあいけねえな。軽く済みそうか」「へえ、好い塩梅に軽そうです」”
江戸末期に繰り返し流行した伝染病(はしか)。『蟹のお角』に「文久二年の夏から秋にかけて麻疹がたいへんに流行しました」と明記。『異人の首』には「麻疹と浪士は江戸の禁物」と当時の流行を反映した言い回しがある。
コレラ(コロリ)
言及 6 作品
『広重と河獺』、『蝶合戦』、『妖狐伝』、『かむろ蛇』、『蟹のお角』 他1
“になるか判りません。その広重は大コロリで、その年の秋に死にました」三こんな話をしているうちに、二人はいつか三囲を通りすぎていた。”
安政5年(1858)に江戸で大流行したコレラの俗称「コロリ」。多数の死者を出した実在の疫病。『広重と河獺』(広重が大コロリで死去)『かむろ蛇』(「いわゆる午年の大コロリ」・千住の焼き場の混雑)『蟹のお角』(「安政の大コロリ、文久の大麻疹」)などで語られ、黒船(外国船)由来の病という噂も記される。
横浜開港
言及 6 作品
『化け銀杏』、『松茸』、『異人の首』、『妖狐伝』、『菊人形の昔』 他1
“わかい方は息子ですが、なにしろ横浜と東京とかけ離れているもんですから、始終逢うというわけにも行かないんです。それでも向うじゃ”
安政6年(1859)の横浜開港。外国との交易の窓口として発展した実在の出来事。『異人の首』に「一昨年(安政六年)の六月二日に横浜の港が開かれると」と開港日が明記。開港後に異人・交易の中心地として多くの作品の舞台・背景となる。
安政の大地震
言及 5 作品
『お化け師匠』、『春の雪解』、『蝶合戦』、『川越次郎兵衛』、『地蔵は踊る』
“話をしましょうよ。あれはたしか安政の大地震の前の年でした」七月十日は浅草観音の四万六千日で、半七は朝のうす暗いうちに参詣に行った。五”
安政2年(1855)の安政江戸地震。家屋倒壊と火災で江戸が甚大な被害を受けた実在の大災害。『川越次郎兵衛』は「その年の十二月二日は安政の大地震」と明記(※史実の安政江戸地震は旧暦10月2日とされ、本文の日付とは一致しない。ここでは本文の記述をそのまま採用)。『お化け師匠』「安政の大地震の前の年」『蝶合戦』「五年前の大地震」『地蔵は踊る』「安政の大地震後に出来た」地蔵。
上野戦争(彰義隊)
言及 3 作品
『狐と僧』、『河豚太鼓』、『薄雲の碁盤』
“はり元の寺に勤めていましたが、上野の戦争のときに彰義隊の落武者をかくまったというので、寺にも居にくくなって、京都の方へ行ったそうで”
慶応4年(1868)の上野戦争。徳川家を守った彰義隊が新政府軍と戦った実在の戦闘。『狐と僧』(「上野の戦争のときに彰義隊の落武者をかくまった」)『河豚太鼓』(「上野の彰義隊の戦争のとき」)『薄雲の碁盤』(「慶応四年の上野の戦争、下谷の辺で死にました」)に言及。
蛤御門の変(禁門の変)
言及 2 作品
『お文の魂』、『歩兵の髪切り』
“時だから、元治元年――京都では蛤御門のいくさがあった年のことだと思え」と、おじさんは先ず冒頭を置いた。その頃この番町に松村彦太”
元治元年(1864)に京都で起きた禁門の変(蛤御門の変)。長州藩兵と会津・薩摩らの戦い。『お文の魂』に「元治元年――京都では蛤御門のいくさがあった年のこと」と明記(※史実では7月の戦いで、『お文の魂』の作中事件=三月より後)。『歩兵の髪切り』はその余波として長州藩邸の取り壊しに言及。西暦換算は本文に明記なし。
日清戦争
言及 2 作品
『お文の魂』、『青山の仇討』
“わたしが半七によく逢うようになったのは、それから十年の後で、あたかも日清戦争が終りを告げた頃であった。Kのおじさんは、もう此の世にいなかった。半七は七十を三つ越したとか云っていたが、まだ元気の好い、不思議なくらいに水々しいお爺さんであった。”
明治27年(1894)の日清戦争。枠物語(明治期)の時代背景として言及。『お文の魂』は明治の風俗の一つとして、『青山の仇討』は「突発のふた月ほど前」の語りの現在として触れられる。
安政改元
言及 2 作品
『弁天娘』、『吉良の脇指』
“安政と年号のあらたまった年の三月十八日であった。半七はこれから午飯を食って、浅草の三社祭りを見物に出かけようかと思っているところへ、三十五六の男がたずねて来た。”
安政への改元(嘉永7年11月→安政元年)。『弁天娘』は「安政と年号のあらたまった年」として作中年を示す。『吉良の脇指』には「歴史の上では安政元年と云うが、その年号が安政と改まったのは十二月五日のことであるから、その当時の人はやはり嘉永七年と云っていた」と詳説される。西暦換算は本文に明記なし。
永代橋の落橋
言及 2 作品
『熊の死骸』、『松茸』
“、その名は伝わっていませんが、永代橋の落ちた時に刀を抜いて振りまわしたのと同じような手柄ですね」二熊は殺されてしまったが、それ”
文化4年(1807)8月、群衆の重みで永代橋が落橋し千数百名が溺死した実在の大事故。『熊の死骸』(「永代橋の落ちた時に刀を抜いて振りまわした」)『松茸』(「文化四年の大椿事」)と過去の落橋事故として言及される。※他作の「永代橋」は橋名・地理の言及のため不採録。
江戸城御金蔵破り
言及 2 作品
『金の蝋燭』、『川越次郎兵衛』
“の二人が共謀して、江戸城本丸の御金蔵を破って、小判四千両をぬすみ出しました。この御金蔵破りの一件は、東京になってから芝居に仕組”
安政2年(1855)、藤岡藤十郎らが江戸城本丸の御金蔵を破り小判四千両を盗んだ実在の大事件。『金の蝋燭』と『川越次郎兵衛』の中心事件。二人は安政四年二月二十六日に召し捕られ、五月十三日に千住の小塚ッ原で磔刑。『金の蝋燭』には明治十八年十一月に浜町の千歳座で芝居に仕組まれ評判が良かった旨も記される。
天保の改革(水野忠邦)
言及 2 作品
『大阪屋花鳥』、『河豚太鼓』
“水野閣老の天保度改革は今ここに説くまでもない。その倹約の趣意がますます徹底的になって、贅沢物の禁止、色茶屋の取り払い、劇場の移転など、それからそれへと励行されたが、その一つとして江戸の娘義太夫三十六人は風俗を紊すものと認められ、十一月二十七日の夜に自宅または寄席の楽屋から召し捕られて、いずれも伝馬町の牢屋へ送られた。”
水野忠邦による天保の改革。『大阪屋花鳥』に「水野閣老の天保度改革(倹約の趣意、贅沢物の禁止、色茶屋の取り払い、劇場の移転など)」が語られ、娘義太夫三十六人の召し捕り(天保十二年十一月二十七日の夜)にも言及。『河豚太鼓』には奢侈矯正の趣意から根岸の別荘(寮)が規制された経緯が語られる。
白子屋お熊事件
言及 1 作品
『石燈籠』
“白子屋のお熊が引廻しの馬の上に黄八丈のあわれな姿をさらしてこのかた、若い娘の黄八丈は一時まったくすたれたが、このごろは又だんだんはやり出して、出世前のむすめも芝居で見るお駒を真似るのがちらほらと眼について来た。”
実在の事件。「白子屋のお熊が引廻しの馬の上に黄八丈のあわれな姿をさらしてこのかた、若い娘の黄八丈は一時まったくすたれたが、このごろは又だんだんはやり出して」と『石燈籠』に注記される。※事件の年号は本文に明記なし。
文久の改革(参勤交代の緩和)
言及 1 作品
『奥女中』
“此の年の七月から新しい布達があって、諸大名の妻女も帰国勝手たるべしということになったので、どこの藩でも喜んだ。一種の人質となって多年江戸に住んでいることを余儀なくされた諸大名の奥方や子息たちは、われ先にと逃げるように国許へ引きあげた。”
「此の年の七月から新しい布達があって、諸大名の妻女も帰国勝手たるべしということになった」は、文久二年(1862)の文久の改革(参勤交代の緩和・大名妻子の帰国許可)に符合する。『奥女中』では奥方を領地へ送ることになり、お蝶を遠い国許まで連れて行くという結末につながる(物語の筋の要)。西暦換算は本文に明記なし。
槍突き騒動
言及 1 作品
『槍突き』
“文化三、丙寅年の正月の末頃から江戸では槍突きという悪いことが流行りました。くらやみから槍を持った奴が不意に飛び出して来て、往来の人間をむやみに突くんです。突かれたものこそ実に災難で、即死するものも随分ありました。”
文政期の江戸で流行した辻斬り事件。文化三、丙寅年の正月の末頃から流行り、文政八年の夏から秋へかけて再び流行り出し、九月の末頃には三日に一人ぐらいずつの被害者を出した。無差別に突き所持品は取らず、下手人は判らずじまいで沙汰やみ。『槍突き』では初代清元延寿太夫が犠牲になったこと、文化のころの落首も引用される。
打毀し一揆
言及 1 作品
『向島の寮』
“この頃は諸式高直のために、江戸でもときどきに打毀しの一揆が起った。現にこの五月にも下谷神田をあらし廻ったので、下町の物持ちからはそれぞれに救い米の寄付を申し出た。”
「この頃は諸式高直のために、江戸でもときどきに打毀しの一揆が起った。現にこの五月にも下谷神田をあらし廻った」と『向島の寮』に明記。下町の物持ちから救い米の寄付が申し出られ、三島の商人が白米二千俵の寄付を申し出て世間を驚かしたという作中の時代背景として描かれる。
桜田門外の変(井伊大老の暗殺)
言及 1 作品
『蝶合戦』
“今年はおそるべき厄年であって、井伊大老の死ぐらいは愚かなことであり、五年前の大地震、四年前の大風雨、二年前の大コロリ、それにも増したる大きいわざわいが江戸中に襲いかかって来るに相違ない。”
万延元年(1860)の桜田門外の変=井伊大老の暗殺。『蝶合戦』に「井伊大老の死・桜田事件」として、黒船騒ぎ・大地震・大風雨・大コロリと並ぶ「変災椿事」の一つに挙げられる。
弘化二年の大火
言及 1 作品
『熊の死骸』
“弘化二年正月の二十四日、きょうは亀戸の鷽替えだというので、午少し前から神田三河町の家を出て、亀戸の天神様へおまいりに出かけました。そうすると、昼の八ツ(午後二時)過ぎに、青山の権太原……今はいつの間にか権田原という字に変っているようです……の武家屋敷から火事が始まったんです。”
弘化二年正月二十四日の大火。青山の権太原の武家屋敷から昼の八ツ(午後二時)過ぎに出火し、麻布・芝方面へ延焼して夜の戌の刻(午後八時)過ぎに鎮火した(「今日の時間にすれば僅かに六時間くらい」)。焼亡百二十六ヵ町、海の中へ転げ落ちた者が幾百人と伝えられる。『熊の死骸』の冒頭の実景。※この大火の正史との対応・西暦換算は本文に明記なし。
慶応元年の大風雨・落雷
言及 1 作品
『雷獣と蛇』
“慶応元年六月十五日の夜は、江戸に大風雨があって、深川あたりは高潮におそわれた。近在にも出水がみなぎって溺死人がたくさん出来た。そのおそろしい噂がまだ消えないうちに、同じ月の二十三日の夜には又もや大雨が降り出した。”
『雷獣と蛇』の時代背景として本文が事実として語るもの。慶応元年六月十五日夜の江戸大風雨・深川あたりの高潮、近在の出水による溺死人多数。同月二十三日夜の大雨・落雷(江戸市中の幾ヵ所に落雷)。雷死は検視をしない決まりのため、お朝の死骸は検視なしで葬られた。
ヒュースケン暗討ち
言及 1 作品
『異人の首』
“そのなかの一人が首を取られたとすれば、すぐにも知れる筈である。かれらの方でも黙っている筈がない。かのヒュースケンの暗討ち一件をみても判ったことで、彼等からは幕府にむかって厳重の掛け合いを持ち込んでくるに相違ない。”
万延元年(1860)の米国公使館通訳ヒュースケン暗殺事件。『異人の首』に「ヒュースケン暗討ち一件とそれに対する外国側の厳重な掛け合いの慣例」として、攘夷運動の高まりを背景に言及される。
徳川家慶の薨去(鳴物停止)
言及 1 作品
『十五夜御用心』
“嘉永六年七月には徳川家慶が薨去したので、七月二十二日から五十日間の鳴物停止を命ぜられた。鳴物停止は歌舞音曲のたぐいを禁ずるに過ぎないのであるが、それに伴って多人数の集合すること、遊楽めいたこと等は、すべて遠慮するのが其の時代の習慣であったので、さし当り七月二十六夜の月待ちには高台や海岸に群集する者もなかった。”
「嘉永六年七月には徳川家慶が薨去したので、七月二十二日から五十日間の鳴物停止を命ぜられた」と『十五夜御用心』に明記。※史実では家慶の薨去は嘉永6年6月22日(西暦1853年7月27日)とされるが、本文には「七月」と記されるのみで、西暦換算も本文に明記なし。鳴物停止により月待ち・月見の宴が遠慮された時代の習慣も説明される。
両国橋の架け替え
言及 1 作品
『金の蝋燭』
“両国橋は天保十年四月に架け換えたのであるが、何分にも九十六間の長い橋で、昼夜の往来も繁しい所であるから、十七年目の安政二年には所々におびただしい破損が出来て、人馬の通行に危険を感じるようになったので、ことしの三月から修繕工事に取りかかることになって、橋の南寄り即ち大川の下流に仮橋が作られていた。”
「両国橋は天保十年四月に架け換えられ九十六間あった」と『金の蝋燭』に明記。安政二年(十七年目)に大修繕が行われ、三月着工・五月の末=川開きまでに完成予定だった。
吉原の大火
言及 1 作品
『大阪屋花鳥』
“年前に焼けて、今度また焼けて、吉原も気の毒ですね」と、わたしは云った。「まったく気の毒です」と、老人は顔をしかめた。「どうも”
吉原は江戸期に度々大火に見舞われた(明暦・天保など)。『大阪屋花鳥』に、天保六年正月二十四日の廓内全焼と天保八年十月十九日の廓内全焼が詳述され、明治三十年三月十五日の吉原仲の町出火(廓内百六十戸ほど焼失・「吉原近来の大火」)も冒頭で語られる。
淀橋の火薬製造所の爆発
言及 1 作品
『正雪の絵馬』
“このお話の安政元年、六月十一日の明け六ツ過ぎに突然爆発しました。炎天つづきで焔硝が乾き過ぎたせいだとも云い、何かの粗相で火薬に火が移ったのだとも云い、その原因ははっきり判りませんでしたが、なにしろ凄まじい音をさせて、三度もつづいて爆発したんです。”
安政元年六月十一日明け六ツ過ぎ、淀橋の火薬製造所(久兵衛の店の水車)が三度続けて爆発し、久兵衛の家と近所二丁四方が吹き飛ばされ、全体で四丁四方の損害。死人や怪我人が随分あり、虫をおこして死んだ子供や流産した女もあった。『正雪の絵馬』で本文中に実話として語られる。黒船渡来後の海防政策で江戸近在に火薬製造所が設けられ「時々に爆発して大騒ぎをする事がありました」とも説明される。
川崎大師への将軍参詣(言い伝え)
言及 1 作品
『大森の鶏』
“なんでも文化の初め頃に、十一代将軍の川崎御参詣があったそうで……。御承知の通り、川崎は厄除大師と云われるのですから、将軍は四十二の厄年で参詣になったのだと云うことでした。それが世間に知れ渡ると、公方様でさえも御参詣なさるのだからと云うので、また俄かに信心者が増して来て”
文化の初め頃に十一代将軍が四十二の厄年で川崎へ御参詣したという言い伝えが『大森の鶏』に語られる。川崎大師(厄除大師)の初大師縁日(正月二十一日)の風俗とともに言及される。
函館戦争(五稜郭)
言及 1 作品
『菊人形の昔』
“神原内蔵之助という人は、維新の際に用人堀河十兵衛と一緒に函館へ脱走して、五稜郭で戦死したそうですから、本人としては馬泥坊の罪を償ったと思っていたでしょう”
明治2年(1869)の函館戦争。『菊人形の昔』の後日談として「神原内蔵之助は維新の際に用人堀河十兵衛と一緒に函館へ脱走して五稜郭で戦死」と語られる。
お台場築造
言及 1 作品
『吉良の脇指』
“改めて註するまでもなく、異国の黒船防禦のために、幕府では去年の九月から品川沖にお台場を築くことになった。空前の大工事であるから、その費用もおびただしい。その財政の窮乏を補うために、ことしの一月から新吹きの一朱銀を発行したので、俗にこれをお台場と呼んだ。”
「異国の黒船防禦のために、幕府では去年の九月から品川沖にお台場を築くことになった」(去年=嘉永六年九月)と『吉良の脇指』に明記。空前の大工事で費用がおびただしく、その財政窮乏を補うため「ことしの一月から新吹きの一朱銀を発行したので、俗にこれをお台場と呼んだ」。人足の手間賃は一日一朱、流行唄「死んでしまおか、お台場へ行こか。死ぬにゃ優しだよ、土かつぎ」も紹介される。
赤穂義士の討ち入り(元禄十五年)
言及 1 作品
『吉良の脇指』
“頃は元禄十五年極月の十四日、即ち江戸の煤掃きの翌晩に、大石の一党が本所松坂町の吉良の屋敷へ討ち入りの話になった。”
「頃は元禄十五年極月の十四日、即ち江戸の煤掃きの翌晩に、大石の一党が本所松坂町の吉良の屋敷へ討ち入り」と『吉良の脇指』に明記(※西暦換算は本文に明記なし。参考: 元禄十五年十二月十四日は1703年1月30日)。義士の持ち物が泉岳寺の宝物として残ること、討たれた吉良方の形見は世間に伝わらないことも語られる。
江戸城本丸の火事(文久三年十一月十五日)
言及 1 作品
『薄雲の碁盤』
“十一月十五日、きょうは七五三の祝い日だと云うのに、江戸城の本丸から火事が出て、本丸と二の丸が焼ける。こんな始末で世間の人気は甚だ穏かでありません。”
文久三年十一月十五日(七五三の祝い日)に江戸城の本丸から火事が出て本丸と二の丸が焼けた、と『薄雲の碁盤』の史実・世相の言及として記される。将軍家は二月に上洛、六月に帰府、十二月には再び上洛の噂があり、猿若町の三芝居は顔見世狂言を出さなかった。
人物(20項目)
八百屋お七
言及 3 作品
『半鐘の怪』、『熊の死骸』、『妖狐伝』
“だんだん調べてみると、こいつは女形で八百屋お七を出し物にしていたんです。ね、面白いじゃありませんか、ふだんから火の見櫓にあがって、打てば打たるる櫓の太鼓、か何かやっていたもんだから、同じいたずらをするにしても、火の見梯子へ駈けあがって、半鐘をじゃんじゃん打っ付けたと見えるんですね。”
天和3年(1683)に火事の恋で放火し火あぶりにされた実在の娘。『半鐘の怪』では猿芝居の女形の出し物として、『熊の死骸』では半七の洒落「とんだ八百屋お七だ」として、『妖狐伝』では鈴ヶ森で処刑された著名人として語られる。同作に「睨みの松」伝説(火あぶりの引き廻しの際に馬からその松を睨んだ)も紹介される。
吉良上野介
言及 3 作品
『弁天娘』、『蝶合戦』、『吉良の脇指』
“「本所はどこだ。吉良の屋敷じゃあるめえ」”
赤穂事件で浅野内匠頭に斬りつけられた高家・吉良義央。『弁天娘』に半七の洒落「本所はどこだ。吉良の屋敷じゃあるめえ」、『蝶合戦』に松坂町は「かの吉良上野介の屋敷のあった跡」、『吉良の脇指』では吉良上野着用の小袖二枚が河辺家に伝わる噂と、因縁の脇指が語られる。
式亭三馬
言及 2 作品
『湯屋の二階』、『歩兵の髪切り』
“三馬の浮世風呂を読んだ人は知っているであろう。江戸時代から明治の初年にかけては大抵の湯屋に二階があって、若い女が茶や菓子を売っていた。そこへ来て午睡をする怠け者もあった。”
実在の戯作者(『浮世風呂』『浮世床』)。『湯屋の二階』に「三馬の浮世風呂を読んだ人は知っているであろう」と湯屋二階の風俗解説に引かれ、『歩兵の髪切り』にも「浮世床」が言及される。
千葉周作
言及 2 作品
『冬の金魚』、『吉良の脇指』
“撃剣家では俗にお玉ヶ池の先生という千葉周作の道場もあった。それらの人達の名によって、お玉ヶ池の名は江戸時代にいよいよ広く知られていた。”
実在の剣術家(北辰一刀流)。『冬の金魚』に「撃剣家の千葉周作(俗にお玉ヶ池の先生、道場があった)」、『吉良の脇指』におたかの奉公先として実名で言及される。
松尾芭蕉
言及 2 作品
『冬の金魚』、『歩兵の髪切り』
“風呂敷をあけて勿体らしく取り出したのは、芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」の短冊であった。それが真物でないことは其月にもひと目で判った。”
実在の俳人。『冬の金魚』では其角とともに句の作者として名を挙げられ(惣八が持ち込んだ「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」の短冊は偽物と見破られる)、『歩兵の髪切り』には句碑「名月や池をめぐりて夜もすがら」(冬木弁天)が登場する。
幡随院長兵衛
言及 2 作品
『妖狐伝』、『二人女房』
“芝居で見ると、幡随院長兵衛と権八の出合いになって『江戸で噂の花川戸』なんて云うから、観客も嬉しがって喝采するんですが、ほんとうの鈴ヶ森は決して嬉しい所じゃありませんでした。”
江戸の侠客(町人)。芝居でおなじみの人物。『妖狐伝』に「芝居の『幡随院長兵衛と権八の出合い』」が引かれ、『二人女房』には「幡随院長兵衛の三百回忌の法事が嘉永二年四月十三日に浅草の源空寺」で営まれたと明記される。
歌川広重
言及 1 作品
『広重と河獺』
“眼についた一枚絵がある。それは広重が描いた江戸名所で、十万坪の雪の景色だ。おめえ、知っているか」「知りません。わっしはそんな”
江戸を代表する浮世絵師(東海道五十三次など)。実在の人物で、作品『広重と河獺』の表題・登場者としてその絵の評判が語られる。同作で安政の大コロリ(コレラ)により「その年の秋に死にました」と、彼の実際の没年(1858年)が史実として言及される(※没日・西暦換算の詳細は本文に明記なし)。
清元延寿太夫
言及 1 作品
『槍突き』
“再びそれが流行り出して、初代の清元延寿太夫も堀江町の和国橋の際で、駕籠の外から突かれて死にました。富本をぬけて一派を樹てたくらいの人”
清元節の創始者。実在の浄瑠璃太夫。『槍突き』に「初代の清元延寿太夫も堀江町の和国橋の際で、駕籠の外から突かれて死にました」と、文政八年の槍突き騒動で命を落とした旨が史実として語られる。酉年の生まれで「戌年の人に限って突く」風説に当てはまらないとされる。
天一坊
言及 1 作品
『女行者』
“からである。そのときの狂言は「天一坊」の通しで、初代左団次の大岡越前守、権十郎の山内伊賀之助、小団次の天一坊という役割であった”
将軍家の落胤を称して大岡越前守に裁かれた実在の山伏(天一坊改行)。この事件を題材にした講談・芝居が有名。『女行者』では天一坊事件の実録話と「女天一坊」の類例、明治八年の守田座での書きおろし初演、明治三十二年の明治座での通し上演など講談・芝居化の来歴が詳述される。
狩野探幽
言及 1 作品
『化け銀杏』
“稲川の屋敷には狩野探幽斎が描いた大幅の一軸がある。それは鬼の図で、屋敷では殆ど一種の宝物として秘蔵していたのであるが、この度よんどころない事情があって、それを金五百両に売り払いたいというのであった。”
江戸前期の画家(狩野派)。『化け銀杏』で一軸(鬼の絵)の作者として名のみ登場する(※生没年など詳しい経歴は本文に明記なし)。
徳川家光
言及 1 作品
『旅絵師』
“三代将軍家光公がある時、吹上の御庭をあるいている時に、御庭番の水野なにがしというのを呼んで、これからすぐに薩摩へ下って、鹿児島の城中の模様を隠密に見とどけてまいれと、将軍自身に仰せ付けられたので、水野はその隠密の洩れるのを恐れて、自分の屋敷へ帰らずにお城からまっすぐに九州へ下ったということです。”
三代将軍。『旅絵師』に「三代将軍家光公が御庭番の水野なにがしに薩摩(鹿児島城中)の隠密を見届けるよう仰せ付けた逸話」が隠密の役が御庭番の勤めとなった先例として語られる(※逸話の真偽は不明と本文に注記)。
大窪詩仏・梁川星巌
言及 1 作品
『冬の金魚』
“その地名が人の注意をひく上に、そこには大窪詩仏や梁川星巌のような詩人が住んでいた。鍬形斎や山田芳洲のような画家も住んでいた。”
実在の江戸後期の詩人。『冬の金魚』の史実上の人物への言及として「詩人の大窪詩仏・梁川星巌、画家の鍬形斎・山田芳洲」が名を挙げられる。
由井正雪
言及 1 作品
『正雪の絵馬』
“由井正雪が天下の謀叛人だということは、三つ児でも知っている筈だ。あんな物をそのままにして置くお上の思召しは知らねえが、それに眼をかけて、内証で盗み出して、自分の家に仕舞い込んで置くというのは、上を恐れぬ致し方だと云われても一言もあるめえ。”
慶安四年(1651)の慶安の変(由井正雪・丸橋忠弥らの謀叛)の首謀者。『正雪の絵馬』で「由井正雪が天下の謀叛人だということは、三つ児でも知っている筈」と絵馬の由来として史実に言及され、万次郎の恐喝の種になる。※西暦換算は本文に明記なし。
高野長英
言及 1 作品
『唐人飴』
“お聴きください」有名の和蘭医師高野長英が姓名を変じて青山百人町(現今の南町六丁目)にひそみ、捕吏にかこまれて自殺したのは、嘉永三”
実在の蘭学者(シーボルト門下)。蛮社の獄で捕らえられたが脱獄した。『唐人飴』に「有名の和蘭医師高野長英が姓名を変じて青山百人町(現今の南町六丁目)にひそみ、捕吏にかこまれて自殺したのは、嘉永三年十月の晦日」と、脱獄後の潜伏生活が実在の人物として語られる。
河内山宗春
言及 1 作品
『唐人飴』
“久保町には高徳寺という浄土宗の寺があって、そこには芝居や講談でおなじみの河内山宗春の墓がある。その高徳寺にならんで熊野権現の社があるので、それに通ずる横町を俗に御熊野横町と呼んでいた。”
実在の僧侶で、芝居・講談でおなじみの悪僧。『唐人飴』に「高徳寺に河内山宗春の墓があることが明記される」。
佐倉宗吾
言及 1 作品
『青山の仇討』
“座を見物したと云った。「新富は佐倉宗吾でしたね」「そうです、そうです。九蔵の宗吾が評判がいいので見に行きましたよ。九蔵の宗吾と光”
佐倉惣五郎(宗吾)。領主堀田氏の悪政を将軍に直訴した義民として知られる実在の農民。『青山の仇討』で「新富は佐倉宗吾でしたね」「九蔵の宗吾が評判がいい」と、この故事を題材にした芝居『東山桜荘子』の観劇が語られる。
国定忠治
言及 1 作品
『川越次郎兵衛』
“というのは以前は上州の長脇指、国定忠治の子分であったが、親分の忠治が嘉永三年にお仕置になったので、江戸へ出て来て太鼓持になったと”
幕末の上州(上毛)の博徒で、義賊として語られる実在の人物。『川越次郎兵衛』に「以前は上州の長脇指、国定忠治の子分であったが、親分の忠治が嘉永三年にお仕置になったので」と、子分の過去として言及される。
柳亭種彦
言及 1 作品
『川越次郎兵衛』
“堀田原の池田屋の主人が友達や芸者太鼓持を連れて、柳亭種彦の田舎源氏のこしらえで向島へ乗り出したのです。田舎源氏は大奥のことを書いたとかいうので、非常に事が面倒になって、作者の種彦は切腹したという噂もあるくらいです。”
実在の戯作者(合巻『田舎源氏』の作者)。『川越次郎兵衛』に「柳亭種彦: 『田舎源氏』の一件で切腹したという噂」として言及される。
几董(与謝蕪村門下の俳人)
言及 1 作品
『地蔵は踊る』
“「ええと……、誰が願ぞ地蔵縛りし藤の花……。そんな句がありますかえ」
「あります。たしかに几董の句で、井華集にも出ています。おもしろい句ですね」”
実在の俳人(与謝蕪村の高弟で三代目夜半亭を継いだ)。『地蔵は踊る』に几董の句「誰が願ぞ地蔵縛りし藤の花」(井華集にも出ている)が引かれる。
高尾・薄雲(吉原の名妓)
言及 1 作品
『薄雲の碁盤』
“御承知の通り、高尾と薄雲、これが昔から吉原の遊女の代表のように云われていますが、どちらも京町の三浦屋の抱妓で、その薄雲は玉という一匹の猫を飼っていました。”
「高尾・薄雲は昔から吉原の遊女の代表のように云われる名妓(どちらも京町の三浦屋の抱妓)」と『薄雲の碁盤』に明記。伝説的な名妓として語られる。